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日本画 富岡鉄斎

富岡鉄斎

明治・大正の時代に活躍した日本画家、富岡鉄斎。生前彼が残した「私は画家ではなく儒教者である」という言葉からも分かるように、富岡鉄斎の作品は専門の画家の描く絵画ではなく、文化人や学者の描く所謂「文人画」でありました。幼き頃から難聴を患っていた鉄斎は、父も学問好きであったことも影響し学問へと没頭していくことになります。学問を進めて行くうちに10代後半から絵を学び始めますが、画家としての道を志すものではなく、文化人の嗜みとしての意識が強いものでした。私塾を開いたり、神官の職に就いていた鉄斎ですが20代後半から苦しい生計の助けとして絵をかいて売るようになりました。20代から絵を本格的に書き始めたとはいえ、その才能は早くから輝きを放っていたわけではありません。むしろ鉄斎の描く絵は年齢を重ねるごとに芸術性を増していき、70歳、80歳とその生涯を終えるまでセンスを冴え渡らせ続け、世間の評価を高めて行ったと言えます。彼の作品の特徴は自由奔放な画風と賛文にあります。文人画を基本として、さまざまな絵画様式を混ぜ合わせたオリジナリティ溢れる画風で、当時の画家の常識に囚われることなくダイナミックな絵を描いていました。そして、その作品のほとんどには学者でも読み解くことが難しい賛文が書き下ろされています。鉄斎は「私は意味のないものは描かない、私の絵を見るときはまず賛文を見てほしい」という言葉も残しており、あくまでも画家ではなく文化・儒教者として生きるというスタンスが自らの描き出す絵にも表れていたと言えるでしょう。また、鉄斎の作品は儒教化の描いた文人画らしく中国古典をモチーフとし墨で描かれたものがほとんどです。にも関わらず、彼の作品にはまるで西洋画に見られるような鮮やかな色彩を脳に直接描写されるような感覚すらあり、その筆の描く構図の力強さ・絵そのものの請求力の強さをありありと見せつけられる気がします。画家としてではなく文人として生き、生涯を学問に費やした富岡鉄斎。その学問への姿勢とインプットの蓄積があったからこそ時代に残る名作たちが生まれたのです。